ブックレビュー『いつもひとりだった、京都での日々』著:宋 欣穎、訳:光吉 さくら

いつもひとりだった、京都での日々 | 著:宋 欣穎, 訳:光吉 さくら



 

タイトルの「いつもひとりだった」という部分にどういった意味が込められているのか。
読後に少し考えていた。

 


この本は、映画を学ぶために台湾から京都に移り住んだ著者(宋欣頴さん)の、2年間を綴ったエッセイ。

たしかに、当初は「ひとり」であったと思う。
見知らぬ古都で、気持ちを許せる相手もおらず、自分の存在を小さく感じたかもしれない。
けれど時が経つにつれて、宋さんは様々な人たちと関わっていく。
傍から見れば「ひとりではない」のだ。

 

けれど、タイトルには「いつもひとりだった」とある。


この「ひとり」には、不安を感じたり、泣きたくなるような孤独とは違う意味が込められているのかもしれない。


この本に出てくる人物たちは、どこか不器用で、生きづらそうに見える部分もある。
ひとりで多くの時間を過ごしてきた人もいる。


宋さんはそんな人物たちと、いつの間にか距離を縮めていく。
読んでいる私も、彼らがだんだんと魅力的に思えてくる。


私も「ひとり」が好きで、もし誰かと時間をともに過ごすとしても、大人数よりは少人数が好きだ。


それは「ひとり」対「ひとり」でいると、自分のままでいられるからだ。
その方が、相手のことを深く知ることができる。

 

自分が自分である時は、相手もそのままの姿を見せてくれると感じる。

 

 

また、ひとりで動いていると感覚が研ぎすまされ、
いつもの道を歩いているだけでも、新しいことが見えてくる。

 

特に宋さんの場合は異国にいるので、なおさら新鮮な目で京都での日々を見つめたのだと思う。

 

宋さんは京都を離れたのちアメリカに渡って結婚をし、さらに映画の勉強を続け、その後また台湾に戻ったそうだ。
台湾でテレビを眺めていると、偶然、日本で思い入れのあるお店の店主が映っていた。
その時の気持ちを、この本にこう記してある。

京都での日々は前世の記憶のようで、わたしは平凡で単調でありふれた人になっていた。
でもこの瞬間、味の記憶こそあいまいだったけれど、心は激しく揺れ動いた。
ユリさんが青春時代のことを話すときの目、タロイモパイを食べているときの満足そうな笑顔がありありと目に浮かんできた。
友達と食べた最後の一切れのタルト夕タンは、どれほど名残惜しかったんだっけ。
美しい京都を記憶に残しておこうと、どうやって誓ったんだっけ…
わたしってば、こういうこと全部、忘れちゃったの?


家族が増え、守るものができると、おのずと「ひとり」でいられる時間が少なくなる。
それは幸せな悩みでもあることは間違いないし、満たされる部分もある。

 

けれど、ひとりでいた時の、繊細で時にひりひりとするような物事の受け取り方を、忘れてしまった気がする。
もう、あの感覚はやってこない気がして、せつなくなるのだ。

 

だからこそ、私にはこの本に流れる時間がすごく眩しく感じられて、透明感をもって現れた。
そして、宋さんにとっても、そうであったのかなと想像する。

 


また、 さすが映画監督 (当時は留学生として学んでいた) だな、と感じる情景の切り取り方で、光景がありありと想像でき、もしかしたら現実よりも美しいものとして、私の頭の中に映し出された。

 


もしいま 「ひとり」を寂しいと感じている人がこの本を読んだら、
「ひとり」だから見えるものがあることに気付くかもしれない。

 

私はまた、生暖かな春の風が吹き始めた頃に「ひとり」の時間を思い返して、この本を開いてみたい。

 


著者の宋欣頴(ソン・シンイン)さんが監督した長篇アニメーション映画「幸福路のチー」は、東京アニメアワードフェスティバル2018 の長篇コンペティション部門でグランプリを受賞し、その後世界各地の国際映画祭で受賞を重ねている。

 

日本でも、いま上映されている映画館があるようなので、足を運んでみたい。

 

▼映画「幸福路のチー」公式サイト

http://onhappinessroad.net/